アメリカの銃社会はなぜなくならないか

意見ってのはケツの穴と同じだ。誰だって持ってる。Dec. 6, 2017


サイト管理人の友人Sです。今回のネタはちょっと特殊です。

他の記事に比べて検索から来る人の割合が高いと思うので本サイトを簡単に紹介しますと、AGECアウトドアはキャンプ等を中心にアウトドアについての情報を発信してるサイトです。そこで特にナイフについてのコンテンツも多くなってきてナイフの武器としての側面にも触れなければならなくなったので本記事を通じて本サイトの立場を明確にしようという意図もあります。

なのでアメリカの銃社会とか言ってますけど武器全般に関しての話です。てことは日本の銃刀法もあてはまる話です。でもアメリカを例にとるとわかりやすいので今回はアメリカの銃社会に注目しただけです。本記事の目的は考えるきっかけをつくることです。

筆者自身、かなりニュートラルな立場です。アイキャッチ画像は友人と射撃場に行ったときの写真ですが、これがなかなか楽しいんですよね。でも毎年たくさんの人が犯罪で亡くなっている悲しい側面もあります。

社会は武器とどう付き合うべきか、その根底にある考え方をできるだけ中立な立場で双方の立場から説明していきたいと思います。しかし、筆者を含めて誰でも意見の偏りはあります。完全な中立などありません。今回は読者の皆様に特別に注意して真っすぐな目で物事を見つめて読んでいただくことをお願いしなければなりません。

さて、始める前にいくつか注意書き。

まあ当たり前っちゃ当たり前のことなんですけど炎上されても困るので一応。

・筆者は政治や哲学、法学に関しては素人です。素人の個人的な意見や考察をもとに書かれており十分注意はしておりますが、客観性については保障されていないことをご理解ください。
・この記事が議論のきっかけとなると嬉しいです。是非本サイト公式ツイッターに意見を投稿してください。
・政治的な内容に関する意見は感情的になりやすいです。お互いの意見を尊重してください。
・書いてあることが意見なのか事実なのか意識して下さい。理屈に基づいた建設的な意見を持ってください。

武器とは何か

武器とは拳から核ミサイルまで他人を傷つけることができるもの全てのことです。武器は権力です。武器を持つ者は武器を持たない者を思うままにいろんなことできます。力というのは非常にわかりやすいです。正しいとか間違ってるとか関係なく、相手に有無を言わせません。

例えば強盗を考えてみましょう。強盗は店に押し入り、レジ打ちの店員にナイフを突き付けて金を要求します。そしたら店員は刺されたくないから強盗に金を渡しますよね?金を要求すれば金をもらえる。武器を持つ強盗は武器を持たない店員に対して上の立場にあるわけです。強盗はそのまま逃走したとしましょう。強盗は逃げきれずに警察に追い詰められて拳銃の銃口を向けられます。そして強盗は投降して一件落着。より強力な武器を持つ警察が上の立場となり、強盗の行動や自由に関して介入することができるわけです。皆が法律を守って平和に生活しているのは、もし誰かが法律を破ったら武器を持ったお巡りさんがやってきて、その人の自由を強制的に奪えるからです。子供のケンカもそうですよね?体格がすっごい良い子供は簡単にガキ大将になってまわりに手下を付けられます。外交だってそうです。国どうしが対立したら資源、兵器、人、お金、同盟国などの武器があって戦争に強そうな方の国が影響力は大きいんです。

武器が何を意味するのかは万国共通で誰もが理解しているので武器は実際に運用しなくても誇示するだけで相手を言いなりにさせることができます。これは動物界でも同じです。実際にケンカする前に威嚇することで力を誇示して無駄なケンカを避けてケンカのリスクを低くしています。武器は本当に傷つけるという使い方だけでなく、力関係を明らかにして無駄な衝突を防ぐ役割も果たしています。これはいわゆる、核抑止(核の傘)なんかでも持ち出される考え方です。

武器は他の人間よりも上の立場に立ち、相手をコントロールすることを可能にしてしまうものなのです。でもだれも他の人を傷つけたくありませんし、自分も痛い思いはしたくありません。だから、対立が起こったときにどう武器を実際に使わずに問題解決できるか、そしてどうしても武器を使わなきゃいけないとしたら、誰が武器を持っていいのか、どのように武器を使っていいのか、ということを決めておくことはとっても大切なことなのです。

現在の法治国家において、武力による権力の行使は法律の支配の元で行われています。例えば、行政の権力といえば軍隊や警察。警察は英語でよくLE(Law Enforcement=法執行)って言われますよね。警察も軍隊も勝手に活動して良いわけではありません。もしあなたが国にとって都合が悪いからという理由でいきなり逮捕監禁されたりしたら困りますよね?“現行犯逮捕を除けば逮捕をするには逮捕状が必要”という法の下で警察は動いているわけです。こういう武力の行使は国民の要請に基づいて、法律に定められた方法で行われなければならないのです。これは公的な行政の武力に限らず、市民の武装が認められている地域においてもそうです。市民が正当防衛として武力を行使する場合も法の支配の下で武力は運用されなければならず、行為の正当性について司法の場で証明できなければならないのです。

そもそも銃社会はどこから来たのか

はっきり言いますとアメリカの銃社会は憲法から来ています。憲法というのはその国がどうあるべきか、どうありたいのかということを表明する最も基本的で重要な法です。法治国家では誰もが法の支配の下で生きています。自分の権利や義務、社会としての理念などを知ることは非常に重要です。今の社会の原則、それは基本的人権に基づいているということです。もちろん、基本的人権を第一とする考えは西洋的、WEIRD(“Western, educated, industrialized, rich and democratic”)であるという意見もあります。この記事ではこのことについてはそこまで突っ込まないことにします。

基本的人権は誰でも自由に生きる権利があるという考え方です。我々の権利は長い長い歴史の中でのたくさんの人の犠牲の上に成り立っています。それを私たちは忘れてはいけませんし、常に自分の権利を主張し続けなければならないのです。人が法を守るのではありません。法は人を縛るものではなく、法は人の権利を守るものなのです。だからこそ小中学校であんなにしつこく学ぶんです笑。

で、アメリカ合衆国憲法にはちょっと聞きなれない権利について言及している次のような文言があります。

修正第2条
A well regulated militia being necessary to the security of a free state, the right of the people to keep and bear arms shall not be infringed.
規律ある民兵団は、自由な国家の安全にとって必要であるから、国民が武器を保有し携行する権利は、侵してはならない。

ここに銃という言葉はありません。武器全般についてかかれています。これは権利章典(イギリスの権利章典とは違うもの)の修正第2条というもので1791年に成立しました。1791年と言えばイギリスの植民地だったアメリカがイギリスと戦争して独立を勝ち取ったすぐあとです。

細かいことは置いといてざっくりいうと、例えば独裁政権が誕生して人々が自由に生きることができなくなったりした時に人々がその政府をぶっ潰しにいくためです。で、ぶっ潰すのに必要な武器をみんなから取り上げちゃダメだよって言ってるんです。

さすがにテキトーすぎたか。。。

行政などの力によって人間の基本的人権が侵害されるような場合において人間は誰もが抵抗する権利を持っているとともに義務でもあるという考え方です。これを抵抗権とか革命権って言います。

修正第2条は革命権、という権利を保障するために追加された条項なのです。

修正第2条ができる数百年前から日本では刀狩という武器規制をやってたんであんまりなじみのない考え方ですが、アメリカでは武器を所有して携行することは権利なのです。人間に生まれたからには誰にでも認められるべき人権なんです。それもただ自衛のためだけというわけではなく、みんなが自由であり続けるために社会に組み込まれた仕組みなのです。これを遡っていくとジョン・ロックとか王権神授説の話まで続くんですけど長くなるので今回はやめておきます。要するにですね、

アメリカの銃社会は革命の産物なのです。

って言うとじゃあフランス革命のフランスは?ってなるのが自然な流れなんですね。フランスでは抵抗権は認められていますが、武器の保有に関する権利までは触れてはいません。この違いに関して、映画”ボウリング・フォア・コロンバイン”ではマイケル・ムーア監督はアメリカには”恐怖文化”があるからだという考察をしています。非常に興味深く、面白いと思うので興味がある人は是非見てみて下さい。

銃社会は問題が多いといってもその根底にある考え方そのものはとても素晴らしいモノだと思います。特に日本国憲法に抵抗権の記載はありませんし。

でも市民が武器を自由に持つとやはり問題は出てくるもので、犯罪行為にしろ、自殺にしろ、不当な理由で人を傷つけてしまう事態がどうしても出てきます。そうなると武器を規制しようという動きは当然でてくるわけです。

これは身近な物にも言えて、例えば最も身近な武器は自動車です。自動車は銃と同じかそれ以上の破壊力を持つ大量殺戮兵器です。実際、毎日たくさんの人が自動車によって殺されています。なので日本を含め、多くの国では自動車の運転は基本的に禁止されています。しかし、安全に運転できることが確認できれば例外的に運転が許されます。これが自動車運転免許なのです。

自動車はみんな教習所いけば運転できるのになんで銃やナイフは法律でもっと厳しく規制されるんでしょうか?

それは銃や刃物は破壊を目的として作られた道具だからです。包丁だってニンジンをバラバラに破壊するのが目的ですよね?破壊以外の用途が無い道具に対してはやっぱり規制がきつくなるものです。え?!それおかしくね?!っていう主張もありますが、これについてもあとで詳しく触れていきます。

ただ、ひとつ理解しなければなりませんが、”銃規制は必要だ!”って言う時、これを言うのが日本の人なのかアメリカの人なのかでは決定的に認識の差があります。

全てとは言いませんが多くのアメリカ人は基盤にある憲法の考え方を大切にしています。悪意を持った人が武器を所有して不当に他人を傷つけることが問題なのであり、銃規制に賛成か反対か関係なく、普通の良心のある一般市民が武器を持つことは彼らにとっては問題じゃないのです。しかし、
理念としては銃は必要だけど、現実的にどうなの?憲法の理念を踏まえながらももうちょっと規制してもいいんじゃない?
っていう人もいれば
銃を持つことは権利なのだからそれを侵害すること絶対に間違っている。
って言う人もいます。
これはどっちが正しいとかではなく、単純にそれぞれが大切にしている信条の違いから問題に対するアプローチが真逆なだけなのです。そして銃の問題を解決するために法律で規制することはたくさんある解決へのアプローチのうちの一つでしかないのです。ここで重要になるのは法解釈です。憲法は実定法、しょせんは文書にすぎません。なので文書である法を実際に運用するには必ず法の解釈というものがあります。今回もやはり修正第2条の解釈がカギになるでしょう。裁判所の判例について興味のある方はwikiでご覧ください。でもこれも最後の最後には憲法改正も含めて世論が決めるのではないでしょうか?

結局のところ、法というものは市民の同意、支持を持って受け入れられなければならないものです。だから、その法の影響下にある人たちの価値観、道徳観、国民性、文化などを理解せずに意見しても無駄なのです。例えば、日本人がアメリカの銃社会はひどいって言ってもその根底にある考え方を理解せずに意見を言うのは全くもって無駄なのです。

また、法が国民の支持無しに成立しえない点に関して付け加えれば、アメリカの銃規制がここまで議論の対象になるのは規制賛成派と反対派に二分しているからです。まあ、活発な議論があるのは極端な思想に向かいづらいのである意味健全な社会とも言えます。それにしても銃乱射事件が起きるたびに銃の被害者を減らすために銃規制を強化派と緩和派に分かれて同じ問題に対して真逆の意見をぶつけ合っているのはなかなか滑稽です。しかし今、アメリカの若年層を中心に銃規制賛成派の割合が伸びています。なので将来アメリカの銃社会の形が大きく変貌する可能性は十分あると言えるでしょう。

ちょっと脱線しましたので話を戻しましょう。

社会のルールはどう決めるべきか

さて、現実的な話に入る前に質問。なんで法律は守んなきゃいけないの?

バッカじゃねーの?法律破ったら罰金払わされたり牢屋にぶち込まれたりするからに決まってんじゃん!

まあ正しいんですけどもっと根源的な意味を考えてみましょう。社会全体のルールを作って何を達成したいわけ?簡単に言えば、みんなができるだけハッピーに生きていけるような社会を作るためです。この“ハッピーに生きる”ことに関してはいろんな考え方があります。十人十色です。

社会全体のルールはどういう考え方をもとにつくるのがいいのでしょうか?ここではまず2つの考え方、功利主義とリバタリアニズムをさら~っと簡単に紹介します。興味ある方は少し前に大ヒットしたマイケル・サンデルの本でとても分かりやすく説明されているのでぜひ読んでみてください。わかってる人は読み飛ばして結構です。

大事なので先ほども述べたことを繰り返しますが、銃規制に関して、特にアメリカの銃社会について日本人が意見を言うときに気を付けなければならないことが一つあります。アメリカの銃社会を支持する考え方にリバタリアニズムというものがありますが、これは日本人には非常に馴染みの少ないものです。リバタリアニズムに馴染みが無い人は特に実感としては掴めなくても考え方を理解する努力をしていただけると幸いです。リバタリアニズムを理解せずにアメリカの銃社会を批判する日本人はイルカ漁を批判する西洋人と全く同じです。自分の文化と他者の文化が食い違うところを理解しようとせずに批判だけして相容れないと言ってるのと同じです。

功利主義

社会全体での決め事は社会全体の幸福を最大限化することを目指す方向にすべきだという考え方です。最大多数の最大幸福のためにってやつです。細かいこと言えば功利主義の中でもいろいろ細かく分かれてますが今回は触れません。ちなみにアニメや漫画でよくある仮想的な”理想郷”は多くの作品でこの考え方が基盤にあったりします。多数決なんかも功利主義の考え方を反映してます。一番たくさんの人が納得できる選択肢を選ぶことが全体の幸福の最大限化につながるんだって考え方です。最大多数の最大幸福ってのはすごくわかりやすい考え方です。でも功利主義にはどうしても問題があります。問題があるからこそ漫画やアニメでよく若者集団が権力に立ち向かってこの理想郷をぶっ潰そうとするっていうプロットが使いまわされ続けるのです(笑)。

まず、問題点①、幸福の尺度は一定じゃない。即ち、幸福にはいろんな質がありますよね?例えば、ドラゴンボールの漫画を読むのとピカソの絵画展を見に行くので比べてほしいのですが、
質問①:この中で一番楽しいのはなんですか?
質問②:一番品があって高尚なのはどれですか?
多くの人は2つの質問に対する答えが一致しないんじゃないでしょうか?同じように幸福につながることでも一番楽しいものと一番質が高いものは別ですよね?まあ芸術の話なんでこの例だと一致しちゃう人もいるかもしれませんがここで言いたいことはわかっていただけると思います。幸福の種類の違うものは直接比較できないという問題があるのです。

問題点②、最大多数の最大幸福のためならば人の権利は踏みにじられる。例えば考えてみてください。あなたの住んでる町のどこかに爆弾が仕掛けられたとしましょう。そしてその爆弾を3時間以内に見つけて解体しないと爆発してたくさんの人が死んでしまいます。でも運よく爆弾をしかけた犯人が捕まりました。ここからが問題です。この犯人は爆弾の隠し場所を言うつもりがありません。口を割らせるためにこの犯人を拷問してもいいでしょうか?拷問すれば隠し場所を言うかもしれません。功利主義の立場から判断すれば拷問してもいいのです。犯人が拷問される苦痛と爆弾によってたくさんに人が死ぬのを比べたら一人の犯人が苦しむことの方が全体で見た時の損失が少ないですから。ここで出てきた犯人は犯罪者であり、なんとなく拷問を正当化しやすいので別の例、トロッコ問題のバリエーションを見てみましょう。あなたは医者で目の前に5人の病人がいるとしましょう。この病人はそのままでは死んでしまいますが、一人の健康な人から臓器を取り出して5人に移植すれば5人助かります。さて、あなたは罪もない一人の人間を殺して5人の命を救うべきでしょうか?これは去年ノーベル賞を受賞したカズオイシグロの作品“わたしを離さないで”でも提起された問です。功利主義の考え方に従えばその答えはYESです。

リバタリアニズム

功利主義では全体の幸福の最大限化のためには個人の権利を捨てることもあり得たわけです。そこで個人の権利を最重視するのがリバタリアニズムです。日本では保守層なんかに組み込まれたりはするかもしれないけどあんまりメジャーでもありません。でもアメリカでは非常に多くの人がリバタリアニズムの考え方を持っていてこの人たちをリバタリアンって言います。この考え方はアメリカの銃社会を理解するのに超超々重要です。

例えばあなたは一生懸命働いてお金を稼いだとしましょう。そのお金をどう使うかはあなた本人の自由ですよね?好きな物買うでも貯めるでも旅行にいくのに使うでもそれはあなたが決めていい事ですよね?そのお金をいきなり取り上げられたら怒りますよね?っていうかそんなことする人がいたらお巡りさんに捕まって牢屋にぶち込まれちゃいます。普通はそうなんですけどあなたのお金を勝手に取り上げることができる存在が一つだけあります。そうです、政府ですね。皆さんご存知の通りこの取り上げられるお金を税金って言います。

税金ってのはみんなの生活をよくするためにみんなでお金をちょっとずつもらうねっていう考え方ですけど、税金を払うことに関して政府はあなたの許可を取りましたか?みんなのためにあなたのお金をぶんどってもいいですか?そういう同意書が来てそれにサインしたわけじゃないですよね?じゃあなんで政府は勝手に俺のお金をぶんどっていいんだ?おかしいだろ?!

これが超テキトーなリバタリアニズムの説明です。まあもう皆さんお気づきの通り、税金は功利主義の考え方です。みんなからちょっとずつお金を集めて社会のために使うのが最も幸福を最大限化するという理屈です。リバタリアニズムは人が持っている物、それは生まれながらに人が持っている人権にしろ、その人が努力して築き上げた財産にしろ、その人に権利があるもの全てに対してはそれを不当に取り上げることがあってはならないという考え方が基盤にあります。自分の物を誰かに寄付すると自分で決めて寄付する事はいいのですが、他の人が本人の意思に反して奪い取るのは間違っているという考え方です。リバタリアンからすれば政府は人がそれぞれ持っている権利を守るためだけに存在しているのであり、その目的を果たせるだけの最小限の政府を求めます。リバタリアンは健康なり安全なり仕事なり、自分のことに関して自分が管理していることを理想とします。リバタリアンは自分の権利についてすべて自分で決めることを神聖視しており、生活保護など富の再分配には反対で安楽死や、究極的なことを言えば、例えば臓器売買なんかにも肯定的だったりします。リバタリアンからすれば自分の身体だからそれをどうするかは本人の自由ですからね。それは問題あるだろ!って思うかもしれませんが、これは人間が自分の臓器を売るなどという考えに本能的に嫌悪感を感じるようにできているからです。詳しくはジョナサン・ハイトさんの”The righteous mind”という本に詳しく書かれていますので興味ある方は読んでみてください。リバタリアニズムのアプローチではたとえ臓器を売ることだとしても政府がそれを規制するのは自分が権利を持っている自分の身体に関しての選択が政府に制限されることを意味して許されないのです。まあ、臓器を売りたい人がどれだけいるかはまた別問題ですが。

もちろんリバタリアニズムにも問題があります。

人の権利、それは本当にその人に認められるべきなんでしょうか?例えばお金。お金持ちの人はその人が頑張って稼いだからその人のお金はその人に権利がある、本当にそうなんでしょうか?この人がお金持ちなのは裕福な家庭に生まれて質の高い教育を受けて良い学校を卒業して良い企業に就職したからだとしたら本当にこの人の頑張っただけだからなんですか?頑張ったのもあると思いますが、運よく良い環境に生まれたから上手くいってる部分は大きいんじゃないですか?じゃあこの人のお金をどうするかは本当にこの人の自由なんですか??そりゃ違うよね、ってなりませんか?もっと極端な例を出せば朝鮮半島、38度線を挟んでどっち側に生まれるかで全然違う人生を歩むと思います。でもどっちに生まれるかなんて選べないですよね。北側に生まれちゃ人権すら割と危ういですよね。リバタリアニズムはこの運による人生のチャンスの偏りをどうしても補正できません。

(参考)機会均等化

まず、説明する前に言っておきます。武器規制に関しては主に功利主義VSリバタリアニズムの構図になっており、こいつは脇役的存在です。でも考え方としては銃規制においては武器を持つ者対持たざる者の格差として出てくるので説明します。この考え方は“リベラリズム”って呼ばれることもありますが、リベラルという言葉の意味は非常に広く、この考え方は一般的な“リベラル”という言葉に一致するわけでもありませんのでご注意下さい。

リバタリアニズムでは運による人生のチャンスの偏りを補正できない問題があると述べました。本記事ではその平等性について問題視する考え方を見てみましょう。

例えばお金の話をすれば、その人がどれくらいお金持ちなのかは、その人の頑張りだけではなく、育った家庭環境や教育環境も影響してくると先ほど述べました。音楽的才能とかを見てみると遺伝的要因も大きく影響しますしね。というわけで自分のお金に関する権利は全部自分にあるって考え方はおかしくねえか?って話でした。じゃあお金持ちからお金集めてみんなに分けようぜって話になるわけです。

あれ?これって税金じゃね?

そうです。これ税金って奴です。功利主義では皆からお金を集めてみんなのために使うのが一番たくさんの人をハッピーにできるから税金やろうぜってなりました。でもリバタリアニズムって考え方では俺の金を勝手に奪い取っていくなんてひどいじゃないか!税金は悪!ってなりました。しかし、機会均等化の考えを持ち出すと、お前の頑張りで得た金はお前のもんかもしれんが、お前がただただ運がよくて得た分の金もあるんだからそれはお前よりも境遇がアンラッキーだった奴にも分けて平等にしようぜってなったわけです。それはただ単純にお金持ちから集めたお金を貧乏人に与えるってだけではなく、皆で使うお金はお金持ちにはいっぱい出してもらって貧乏人はちょっとだけ払えばいいよって考え方にもなります。所得税の累進課税なんかはまさにその考え方です。

ちょっと脱線しますが、実は日本国憲法はこの考え方がとても色濃く反映されたものです。憲法の条文中に何度も“公共の福祉”という言葉が出てきます。公共の福祉のために国民の権利に積極的に介入して良いことになっています。それは主にここで説明している機会均等化の考えと深く関係しています。現在の経済自由化や官から民へといった動きはこれに反するもので、最近の憲法改正の議論では9条にスポットが当たりがちですが、この福祉国家的な性格からの脱却も憲法改正の目的の1つなのでしょう。まあ、あくまでも個人的な意見としては憲法改正は不要だと思っていますが。

話を戻して、もちろん機会均等化に基づく富の再分配にも問題があって自分の頑張りで得たお金と自分がラッキーだったことで得たお金をどう見分けるんだ、とかいろいろあるんですけど本記事は富の再分配の話ではないのであんまり深く突っ込みません。とりあえずですね、人生のチャンスは人によって違ってそれで幸せになる人もいれば不幸せになる人もいる、だからそのチャンスの差をどうにか減らせないか?みたいな考えが生まれたって覚えておいてください。

銃規制の話に当てはめてみよう

以上の考え方、功利主義、リバタリアニズム、ほかにも様々な考え方はあるんですけど、通常は偏りがありつつもこれらのバランスを取る形で社会全体のルールが決まります。ここで銃規制の思考の流れをもう一度見てみましょう。

 

①市民の自由のために武器は必要である。

これは上にも述べたように合衆国憲法に記載されている権利です。さて、多くの市民が多くの武器を持つことで問題が起きました。

②武器が犯罪に使われる。

さて、ここでどうしようかと対応が考え方によって分かれるのです。アメリカではこの対処として主に2つの意見があります。

③対応策

A.市民が武器を持つことを制限しよう。

武器を規制すれば社会の中で流れる武器を少なくして犯罪者が武器を入手しづらくする。ただし程度には差があれ、“武器を保持する権利”は侵害される。また、アメリカの場合は憲法の精神にも干渉する。

B.良い市民が武器を持つようにしよう。

Aだと武器保持の権利が侵害されるから、市民がみんな武器を持つことで犯罪者が犯罪を行おうとしてもその場で撃退することができるようにする。

C.その他

もちろん他の選択肢の可能性もある。

 

さて、社会の対応としてA、B、Cと様々な方法がありますが、どれを選ぶべきでしょうか?

功利主義の選択:幸福を最大化するにはどうするか考えます。この場合、第一に犯罪を最大限に減らす方法を考えます。となると社会から武器を排除すればいいじゃないか、というのが効果的な方法の一つです。なのでA、それも非常に厳しい武器規制という考えになることが多いです。現状日本はこの選択です。しかし、武器規制で犯罪を減らせるかということに関しては懐疑的な意見もあり、詳しくは後述します。犯罪を最も減らせる方法は何かという問いに対する答えによって選択が変わってもきます。また、武器の所持の権利が侵害されることによる幸福の減少を考慮する必要がある、という主張もあります。

リバタリアンの選択:銃を持つことは権利です。自分の安全、家族の安全、社会共同体の安全に関して自分自身で責任を持つことがとても重要と考えている人たちです。社会の安全は自分たちが武器を持って自分たちで守る。例えば強盗が来ても少なくともお巡りさんが来るまでの間は自分で対応できるようにしておこうという考え方です。自分がどうなるかを決める要因に関して常に自分自身が主体性を持って関与できることが自由です。リバタリアンからすれば、銃規制は間違った考え方であって、政府は武器を規制するために存在するのではなく、市民の武器所持の権利を守るために存在しているべきなのです。

銃規制の是非がいつも厄介な問題になるのはその構図が

権利 VS 効用

となっているからです。即ち、

銃を規制すれば人権を侵害するけど犠牲者は減らせる

銃社会では人権は守れるけど犠牲者が多い

てことです。

この構図をわかりやすく説明すれば、例えば、2つの国があるとします。片方はめちゃくちゃ国が栄えていて国民もすごく豊かで幸せな生活をしていますが、国民に私有財産は認められず、服も家も全て国のモノです。もう片方は貧しくて治安も生活水準も悪いですが、車も食べ物も自分で買うので自分のモノです。どちらかに住まなければならないとしたらどっちにしますか?ってのと同じようなジレンマなのです。

人は自分の信念に凝り固まっている人ほど厄介なものです。功利主義者に自衛の権利を語っても理解してくれませんし、リバタリアンに銃規制で銃犯罪の犠牲者が減ることを語っても理解してくれません。まずはお互い逆の立場の考え方を理解する必要があります。そこでどこでお互い同意できるかを見つけてそこから妥協しなければいけません。アメリカの武器規制の議論でみんなが賛成できることはこれです。

・善い人が武器を持つのは問題ではない
・悪意がある人が武器を持つのは問題である
・武器を用いた不当な暴力の犠牲者を減らしたい

でも、厳しい銃規制を行うにしても行わないにしても完璧と言えるものは無くて、どちらもそれぞれ違う部分で犠牲にしていることがあります。日本は功利主義に大きく偏っていますが、非常に厳しい銃規制と警察・行政による治安維持への尽力の上にさらにそれが国民性ともマッチすることで成功を掴んでいます。でも大抵はどれを選んだとしても何かしらを妥協しなければならない中で人々は自分に何を大事にするかを自分の正義観に問いかけて選択して選挙で意思表示するのです。特にアメリカでは銃規制の賛成派と反対派がわりかしはっきりと分かれていて、大抵はそれぞれのバランスを取った形の武器規制になります。

リスクマネジメント

武器は危険物です。当たり前ですね。でも武器には必ず使い手がいます。武器が勝手に危険なのではなく、使い手が危険なことをすることで危険なのです。どんな物でも他者にとって危険な使い方をすることで武器になるのです。小さなフォールディングナイフはもちろん、ボールペンで人を殺すことだってできます。ボールペンを法律で規制しますか?

自動車に関しては冒頭にも述べましたね。人類に最も普及している大量殺戮兵器です。毎日世界中でたくさんの人が車の“誤使用”で死んでいます。それでもメリットがあるから訓練を受けて特別な許可を受けた人が例外的に使っていいことになっています。この“訓練”が教習であり、許可証が運転免許なのです。危険物を安全にコントロールする練習を積めば人間は安全に運用できる能力があるのです。それは火を使い始めた太古の昔からそうです。火は、コントロールを失えば火事になって危険ですが、上手に扱えば料理をしたり暖を取ったりすることができるわけです。危険だから禁止するのではなく、危険だから正しい扱い方を習得するというのが本来あるべき姿だと思います。これは武器だけ何か特別なわけではなく、銃も車もリスクに関しては本質的に同じなのです。

リスクマネジメントの大前提として、

リスクは取るものである

特に人間の心理として命に係わるリスクはゼロにしたいという気持ちが強くあります。しかし、リスクは完全に排除できません。だから短絡的に危険だから禁止という発想にいくことは根本的な解決にはなりません。

もちろん百害あって一利無しなら禁止するのもわかりますが、ほとんどの場合は何かをしたらトレードオフとして別の悪い側面が出てきます。大切なのは話し合いを通じた十分な吟味です。危険→禁止の短絡的な思考に基づけば極端な話、車や電車は一発で禁止されます。同じ理屈で行けばボールペンまで禁止ですよ笑?生きている限り100%の安全なんて存在しません。明日家を出たら不慮の事故に会ったり心臓発作になったりでもう二度と家に帰れない可能性だってあるわけです。だから危険に対してはきちんとリスクと向き合うことが重要になります。

リスクは0にはなりませんが、どうやったら減らせるか。リスクと恩恵のバランスをどう取るか。そこに注目しなければなりません。

また、だからと言って規制しないのが必ずしも正しいわけでもありません。

リスクマネジメントのもうひとつの大前提は

許容できるリスク量を決める

例えば、銃規制においてよく規制反対派は次のようなことを言います。

“もしも、家で寝ていて強盗が家に入ってきたとしよう。強盗犯が武装していたらどうする?もし銃規制が厳しくて銃を所持していなければ相手の言いなりになるしかない。例え強盗犯が自分や家族に暴力を振るってきてボコボコにされてもそれを受けることしかできない。もし電話線を切られて警察に連絡できなかったらただ被害者になるしかない。じゃあ家の奥からバットをもってきて抵抗する?それって強盗犯のぶん殴るってことだろ?バットで殴れば多分相手死ぬぞ。それじゃあ最初から銃の方が良くないか?だって銃口を向けるだけで、誰も傷つかないで対応できる可能性だってあるじゃないか。”

これは正しいです。これは銃のメリットとして絶対に否定はできません。銃は破壊しか用途がない道具、現実的な実用性があるわけではないからいらないという意見は必ずしも正しいわけではなく、権利の保護としての実用的な価値は存在します。だから車も銃も適用される考え方は根本的に同じなのです。その価値を有効に引き出せるかどうかは単純に人々が銃の扱いに慣れているかどうかの問題でしかありません。

ただ、リスクマネジメントの観点で見るとこのような銃のメリットがあるから銃を規制すべきでないと即座に判断できるわけでもありません。銃規制をする狙いというのは家に強盗が入ってきて不当に暴力を振るうようなことが起こる可能性をもっともっと減らすことです。銃規制でリスクそのものは確実に減るのです。もちろん、可能性を減らしても0にはなりませんのでその僅かな可能性が現実になって強盗が入ってきたときには対応できず、被害者になるしかありません。この僅かな可能性において抵抗する権利を棄ててでも犯罪を減らすべきなのか、そこが問題なのです。銃規制をするということは犯罪の被害者になる可能性を減らすとともに抵抗の権利を奪って運悪く被害者になった人を棄てるということですが、それでも社会におけるリスクは減りますから天秤にかけなきゃいけません。

即ち、

他のリスクや影響との関係性を考慮したうえで許容リスク量を設定する必要がある。

功利主義的な立場でリスクを減らすのに銃規制は確実に合理的な判断です。でもトレードオフとして功利主義の問題点は必ず残ることを理解したうえでその判断を下さなければいけません。

日本では功利主義のドローバックを国民がほとんど問題視しないので厳しい銃規制が社会的に合理的なのです。だから日本では教習所に行けばほとんどの人は自動車免許をゲットして車を運転できるのに銃となるとそう簡単にはいかないのです。日本はリスク評価をして、許容リスクを踏まえたうえで功利主義に基づいて判断したからです。即ち、車は危ないけど生活には欠かせない便利な道具だけど銃は日本の文化圏では国民が扱い方を知らないので価値を引き出せず、ほとんどメリットがありません。リスクと恩恵の2面性に注目して考え、様々な視点から吟味して、社会的合理性に基づいて判断する。当たり前ですよね?でもリスクの数値化が難しい以上、常に判断は難しいです。

危険物に関して功利主義の考え方を用いる時の判断基準はリスクマネジメントの基本的な考え方なのです。

銃規制の効果

仮に、功利主義的な観点に立った場合、銃規制の効果について知る必要があります。重要なのでもう一度言いますが、もちろん功利主義が必ず正しいというわけでもなく、銃規制の効果があるからと言って銃規制が絶対正しいと言いたいわけでもありません。どの思想が正しいかはそれぞれの個人の信条に基づきます。そうは言っても銃規制の効果はとても重要なトピックです。

それにしても、ああ。。。。

銃規制の効果については正直書きたくないです。なぜならデータの解釈が非常に難しいからです。なぜ難しいか?

統計を齧った事のある方はわかると思いますが、要因の交絡というものがあるからです。また、統計の原則として2つの事象の因果関係を証明することはできません。2つの事象に関係がある可能性が高いなどと言うことは言えますが、Aが高いとBも高いからAが原因でBという結果が出る、ということは絶対に証明できません。それにはCという要因が絡んでるかもしれないし、そもそもAとBは無関係でたまたま意味がありそうに見える結果が出ただけかもしれません(参考サイト:spurious correlation)。興味ある方はデータで人をだます方法をたくさん身に着けられるので是非統計を学んでみて下さい。

銃規制の効果に関する統計データは非常に不確定要素が大きいことに留意したうえでお読み下さい。銃規制に関する数値データや解釈は様々で科学的に判断することは困難です。少なくとも筆者の統計の知識では無理です。ここでは厳密に統計学に基づいた議論はしませんが、主要な論点を説明します。本記事のここから下の内容全ては厳密なデータに基づかない勝手な判断を含んだ個人の解釈がかなり入っています。多分こうだろうで割と書いているので将来は全然違った結果になっているかもしれません。ご注意ください。

具体的に言えば

銃規制を導入することで犯罪は減るか?

という問いに対してどんな要因が関係するでしょうか?例えば経済力。豊かな国は生活水準も高くて銃が普及していても治安は割合良いかもしれません。他にも国民性や文化。規制を受け入れる国民性であるかどうかによって狙い通りに効果を発揮するかは変わってくるかもしれません。

要するに、銃規制を行ったら社会にどういう影響を与えるかを厳密に知るのはとても難しいのです。

 

以上をはっきりさせたうえで言いますが、個人的な意見を述べますと恐らく、

厳しい銃規制を行うことは銃による犯罪抑制に効果があると思われる

ただ、これにはちょっと裏がありまして、例えばシカゴなんかは銃規制が厳しいのに犯罪率が高いなどと頻繁に指摘されています。

 

その理由としては近辺の銃規制が緩い地域から銃が流出しているといったことが予測されていて、個人的にもそれはある程度はあると思います。

なので銃規制反対派は銃規制は犯罪抑制効果が薄いという主張を展開することが多々あります。

ここで生じる問題は犯罪者は銃を簡単に入手できるのに市民は銃規制が厳しいから銃の所持が難しいというよろしくない格差が生じることです。犯罪者側からすれば市民は銃を持ってないことを知っているので安心できるわけです。

このことに関してもう一つ注目すべきことは乱射事件の多くが学校などの“gun free zone(銃持ち込み禁止区域)”で発生していることです。これも同じで犯罪者側からすればたくさん人を撃ち殺したければ抵抗する術の無い無防備な相手の方が良いわけです。

中途半端な銃規制は逆効果だと筆者は考えています。もし効果的に銃規制を行いたければ社会に流通する銃の数を減らすために連邦レベルでの大幅な銃の所持規制を行う必要があると思います。ただし、そこまで銃規制をすることが憲法の定める武器保有権と相容れるのかというアメリカの問題もあるわけです。最初の方でも述べたように武器の保有は形式的であるとしてもアメリカでは民主主義と基本的人権の維持の根幹を成していますから。

銃規制と言ってもその形態は様々です。それは所持できる銃の種類に関するもの、寸法や機能、機構、装弾数などといったものから、購入者の制限、携帯に関する制限、免許制度など様々です。権利と効用のバランス考えてどのような規制を行うかを判断するのは難しく、長い話し合いの末に決められます。非常に細かいテクニカルな内容になってしまうので今回は詳細を省略します。

それでも連邦レベルでの厳しい銃規制を実施すれば社会全体から徐々に銃の数は減って銃犯罪は減らす効果があると個人的には信じています。でも結局のところは効果があるとしても人権侵害をしてまでも規制することは正しいのか?やるとしたどうやるのがいいのかというのがアメリカでは常に問題なのです。

平等とは?

ここで功利主義の考え方をちょっと脇に置いておきましょう。

銃規制においての問題の核心は武器、即ち力を持つ者と持たざる者の格差です。この格差がある限り力の上下関係が発生してしまうのです。それは基本的に法の下での武器の運用という形で上下関係が解消されるようになっていますが、武器を持つ人間に悪意がある場合はそんなことは機能しません。

犯罪者と市民、市民と政府、あらゆる場面に存在する武器を持つ者と持たざる者の格差。

この非対称性が問題の根幹なのです。

解決する方法は理論上は2つ。①皆が等しく武器を持つ。②皆が全く武器を持たない。でもどちらも非現実的ですよね?

銃規制を厳しくするのも緩くするのもどちらもこの非対称性を解決するためのアクションなのです。

銃規制が緩い場合、銃を持つ者と持たざる者の格差はできてしまいます。それは銃を買うことができるほど裕福である人とそうでない人の差であったり、銃を扱うことのできない子供や障害者などといった社会的弱者の存在だったりします。下にも書きますが、銃社会では社会全体で弱者を守るという考え方で対応しています。それでも武器における社会的弱者が生まれてしまうというデメリットは完全には解決できません。どうしても不平等が発生してしまいます。

もうひとつの考え方は銃規制を厳しくする、これは警察などの法の下で活動している公権力に力を集中させることです。市民は警察の保護下で生活し、警察は国民主権の下に作られた法の下で活動します。

しかし、リバタリアンからすれば政府の権力行使機関である警察に力が集中することに非常に大きな問題点があります。また、全てが警察任せで自分で対応する能力は奪われるということです。誤解が無いようにはっきりさせておくと、リバタリアンの方々は警察を否定しているわけではありません。国民の権利の保護のプロ集団として警察は必要です。問題は警察だけに力があつまることです。市民間では平等だけど市民と政府に差ができてしまいます。即ち、万が一、国民による警察のコントロールが失敗したら対応できないということです。この辺の問題点はどうしてもアメリカの自治の考え方にはそぐわないのです。

結局のところ、銃規制をきつくしようが、緩くしようが、武器を持つものと持たざるものの格差は埋まりません。程度の差こそあれ、どうしても不平等は存在するのです。

何度も何度も書きますが、正しい選択なんて無いのです。あなたにとっての正義は何か?その思想に基づいて、デメリットを理解したうえで選択をするのです。

銃社会擁護派の考え

銃社会を支持する人々というのは、日本には馴染みが無いのに誤ったイメージだけが先行していると思うのでいくつかのキーコンセプトを紹介します。

誤解しないでほしいのですが、銃社会を支持する人たちも善良な市民です。いくら自己防衛のためと言っても本当は絶対に人を殺したくなんてないんです。

でも彼らは世の中には悪は必ず存在していて、完全に抹消することは絶対にできないという事実を直視しています。残念ながら世界のどこにいても悪人はいます。悪人のために何にも悪いことをしていない人の命が奪われるのは間違っているという考えからどうしても仕方なく緊急的に防衛手段として武器を使うという選択と覚悟した人たちなのです。

この根底にあるのが“Sheepdog Concept”という価値観です。ここ最近だと映画“アメリカン・スナイパー”でも触れられていました。これは悪人は必ず存在するから自分の身は自分で守らなければならず、老人、子供、障碍者と言った社会的弱者をみんなで守っていかなくてはいけないという考え方です。詳しく知りたい方はこちらをご覧ください。身を守る主体が警察などではなく自分たちなのです。それは自分の安全について自分が管理する権利があるというリバタリアニズムの考え方に基づくものなのです。

でも悪人と言っても相手は人間です。人の命を奪うことができないという考えから銃を所持しない選択をする人もいますし、合法的な正当防衛で人を殺した後に何年間も悩み続ける人もいます。銃社会を擁護して銃を所持すると決断した人の多くはそこまで深く考えたうえで決めているのです。(そこまで深く考えてない人もいるのでそれはそれで問題ですが)また、正当防衛で銃を使った場合には後の裁判でその行為が法に照らしあわされて正当だったのかどうかが審議されます。

そして、銃を所持している側も人間です。時には理性を失って感情的になることもあります。そういう時でも生死に関わる判断をしなければなりません。その時にとても重要になってくるのはその人の物事の良し悪しの判断基準となる価値観の基礎部分なのです。アメリカはキリスト教の影響が強く、キリスト教的な価値観が社会に色濃くしみ込んでいることも注目すべき点です。

いくら権利が認められていても銃を所持するということは非常にシリアスなことなのです。

銃文化のモデルというのは皆が銃を持っていていつどんな時でも犯罪に対応できるという社会です。市民が力を持つことで犯罪者との武力格差を解消しているのです。しかし、このモデルが成立するには誰もが車の運転と同じように常識的に銃の扱い方を知っていて銃を持ち歩いている文化が前提として必要です。なので逆に、CCW(武器隠蔽携帯)免許保有率、さらに銃の携帯率が実際に高いかという現実的な問題も常に残ります。

特に現代、アメリカの人が銃を携帯するのは主に乱射事件対策です。言ってしまえば日本の人が地震対策で笛を持ち歩くのと同じような感覚です。乱射事件の犯人の多くは社会に失望して孤立した人々です。そういう面で日本で列車に飛び込み自殺をする人に似ている側面があります。乱射事件の犯人は大抵無防備な相手を射殺したいので、反撃されると多くの場合自殺します。物理的に止められなくても銃で撃ち返すだけでも一定の効果はあるのです。

乱射事件が発生した時、警察が対応するまでにも時間がかかりますのでその間に多くの人が殺されてしまいます。大切なのはそういった時にその場に居合わせた人が犯人を止めることで何人の人を救えるかということなのです。トロッコ問題を思い出してください。暴走列車が5人の作業員に向かって突き進んでいるときに列車を止めて5人の命を救うには目の前にいる太った男を橋から突き落とさなければなりません。5人を救うために太った男を突き落としますか?乱射事件対策として銃を携帯するということは橋から太った男を突き落とす選択をした人たちなのです。

そもそも銃規制がもっと厳しかったら乱射事件などの銃犯罪が減るじゃんって言う人もいるかと思います。確かに銃犯罪は減ります。でも世の中から悪は消えません。犯罪を犯そうと決めた人は法律を守りません。そしても何よりも、憲法に記載されている武器保有の権利に基づいて基本的人権の維持を遂行することが重要なのです。彼らは権利VS効用のジレンマの中で代償を払ってでも権利を選択しているにすぎないのです。

そして、そういう人たちからすればNRA(全米ライフル協会)は強力な人権保護団体なのです。

アメリカの銃問題の本質

これは完全に個人の意見です。

アメリカの銃問題の話になるといつも疑問に思うことがあります。

他の国を見てみると実はスイスなんかもかなり銃規制が緩いんですけど、犯罪率はかなり低いです。銃を用いた殺人の件数が人口10万人あたりに0.5人です。アメリカの場合は10人を超えていますからえらい差です。

筆者個人の意見としても銃規制はある程度は必要だと思います。でもマイケル・ムーア監督と同様、単純に銃のせいなのかとも思うわけです。もっと要因の交絡があるはずです。

犯罪行為と銃を結びつけてしまう定型化された思考回路が文化の中に組み込まれているのかと思います。

例えば社会に失望しきって人生を諦めた人間というのはいつどこにでも存在します。

そのような人たちはなぜ日本では列車に飛び込み、アメリカでは乱射事件を起こすのでしょうか?

もはや定型化しています。これはどのように説明すればいいのでしょうか??

日本には電車がいっぱいあるから、アメリカには銃がいっぱいあるから、という説明はあまりにも説得力がありません。

そう考えるとアメリカの銃問題は単純に銃規制だけで解決できる問題とも思えません。もっと根が深い問題です。

単純にシステムを変えるだけでは解決しないと思います。これは社会を構成するひとりひとりの人の心の中に問題があります。ハード面の対応は簡単ですが、ソフト面の対応というのは難しいです。そのために必要なのは市民教育なのかなと思います。

健全な社会を目指すにはどうすればいいのか、社会の構成員の一人ひとりが真剣に考える必要があるのではないでしょうか?

本サイトでの武器の扱い

本サイトでは刃物や銃器などといった道具の武器としての側面は無視はしません。武器性が認められる道具に対してははっきりと記事で言及しますし、武器の有効性に関する議論もします。

悪意によるものではなく、かつ法的に認められた権利の範囲内での武器の使用は支持します。それは暴力を肯定する考え方に基づくものではなく、武器使用に関する諸地域の価値観を尊重し、純粋に個人の権利を保持・保護するための手段として捉えるものです。武器を犯罪行為や不当な暴力、他者に対する人権侵害の目的に使用することにはいかなる場合においても断固として反対します。

まとめ

今回の記事ではアメリカの銃規制についての概論の本当に表面をさらーっと触れました。実際にはもっともっと細かいところまで議論されています。興味のある方は調べてみると面白いかと思います。

結局正しい答えなんてありません。何が正しいかなんて人によって全然違いますから。それでも社会的合理性に基づいて決断を下さなければなりません。その判断を下すのは主権者である国民であり、上でも述べたように若年層の政治的思想の変化に伴って社会は激変するかもしれません。というか20年後くらいには銃規制は今よりかなり厳しくなるのではないのでしょうか?

でも今回の記事の目的はアメリカの銃規制について説明することではありません。皆さんに問題提起をしたかったのです。この記事が自分の立場に置き換えてじっくり考える機会となって家族や友人など周囲の人とのディスカッションになんか繋がれば嬉しい限りです。

2万字オーバーで本サイト最長の記事になってしまいましたが、長文を最後まで読んでいただき本当にありがとうございました。

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ABOUTこの記事をかいた人

S

ストイックに理詰めで装備システムを構築する実用主義者。ponkyがデザイナーならSはエンジニア(B2は中間でバランス良い)。Sからすれば実用性第一で見た目は二の次のようだ。体力はないが、読図やロープワークは超得意。
イギリス生まれなのにアメリカ英語しか使えない日本育ち。